研究会の活動に関連するテーマのコラムを連載しています。
神戸教育カウンセリング研究会
文責 神戸教育カウンセリング研究会 事務局
コラム 〈第8話〉コンプライアンスという言葉の誤解
〈第8話〉コンプライアンスという言葉の誤解 24年3月
 コンプライアンスは,一般的に「法令順守」と訳されることの多い言葉ですが,本来のコンプライアンスは,単に「順守/遵守」という意味であって,要は,何かに対して「従順に従う」という態度を意味します。時として,「言いなり」といった否定的ニュアンスにも使われます。つまり,本来のニュアンスからすれば,「法令順守」という日本語がイメージするような固い法律用語/行政用語ではなく,従う対象は,別に法令とは限っていないわけです。ただ,現在の日本でコンプライアンスという言葉が使われる場合の多くが,法令や決まりを守りましょうねという場面で使われることが多いために,結果として「法令」順守という意味合いになっているに過ぎません。つまり,今期話題のドラマ「不適切にもほどがある!」で茶化されてるように,リスク回避,つまり突っ込まれることを未然に防ぐための手段,言ってみればHow toといった意味合いで使うことは,本来の語義からは遠いように思います。
 近年の職場等でのコンプライアンス研修などで,すっぽりと抜け落ちていると感じる視点があります。いくつかの具体的な行為を例示して,これらの行為はコンプライアンスに反しますよという趣旨の研修が行われることが多いように思うのですが,そういう「何が」コンプライアンス違反なのか?を解説する以前の問題としての,本来いちばん肝心な「なぜ」それに従うのか?それを遵守するのか?という視点がそれです。言い換えれば,自分が「何を正しいと考えるのか?」というお互いの価値観のすり合わせと言っても良いかもしれません。
 コンプライアンスという言葉が実際に使われるとき,頭にあるのは別に法令だけではないでしょう,おそらく漠然と「世の中の規範」とか「みんながダメだと思っていること」と言ったざっくりしたイメージで捉えていることが多いように思います。そういう場において,あえて「なぜ,それを(そのように)守らないといけないのか?」と問うことは,逆に「そんなことも分からないのか?」と非難の対象になることすら覚悟しないといけないのかもしれません。ただ,「なぜ?」に対する答えが「世の中一般がそう考えているから」とか「みんなそう言っているから」といった捉え方に留まり,お互いの価値観を確かめ合い,すり合わせるというひと手間を省いてしまうことは,時として相手に「盲従する」ことにつながりお互いの思考停止を招く危険性があります。なぜなら,しばしば,世間一般とかみんなというのは無原則に広がるからです。あるいは,忖度が無原則に広がると言っても良いかもしれません。そういう無原則の広がりは,最終的には0か100思考といった極端な結論につながりやすいものです。
 「なぜ?」という問い(本来の意味でのクリティカルシンキング)は,そういう極端な結論に短絡的に結びつくことを防ぐために大切な役割を果たすように思います。

〈第7話〉HEIWAの鐘 23年8月
 学校の合唱コンクールなどでよく歌われる「HEIWAの鐘」という曲をご存じだろうか?その歌詞は,「よみがえれ,あの時代(とき)へ。武器を持たぬことを伝えた先人たちの声を永遠(とわ)に語り継ぐのさ。脅かすことでしか守ることができないと繰り返す戦争(つみ)。忘れゆく愚かな権力(ちから)よ。」と始まる。今の世界の現状を見るとき,その通りだと思うのは私だけだろうか。争いを武力で解決しようとすることの虚しさを人類は何度も学んだはずなのに。
 歌詞は,「ぼくらの生まれたこの地球(ほし)に奇跡を起こしてみないか。」と続く。そんなものはただの奇跡だとうそぶく人に奇跡は起こらない。奇跡を起こしてみようと真に思う人にだけ,時として奇跡は起こるものなのだろう。

〈第6話〉創造力?それとも想像力? 22年3月 
 学校教育を含めた教育の世界において,創造力を養うことの重要性が叫ばれるようになって久しくなりました。そこには画一的な教育への反発という側面もあるように思います。
 ですが,日常の社会生活を送るうえで創造力が必要な場面がどれほどあるか?と考えるとそれほど多くなないだろうという気もします。日常の多くはルーチンワーク,すなわち同じことの繰り返しであって新奇なことをしなければいけない場面は少ないからです。

 創造力を単純に“人と異なる新たな発想,新たなものを生み出す力”とするなら,創造力を養うためには,人に対して周囲と違うことを求めることになります。お互いに違いを認め合うことは,昨今のダイバーシティ尊重の理念から考えても当然のことですが,教育の場においてやみくもに人と違うことを求めることには疑問もあります。
 そもそも,人はそれぞれ異なる存在ですから,「個性の尊重」はある意味言うまでもない自明のことでしょう。ですが,そのことと,すでに違った存在であるものに対してさらにことさら違いを際立たせるようにと促すこと,つまりエッジをきかせることを要求することとは少し違いがあります。本当の意味での「個性の尊重」とは,目の前にある存在をそのまま受け入れるということであって,“違った存在だから”尊重するということではないからです。これはよく誤解されることですが,個性とは“人との違い”ではありません。あくまで,その人の有する全人性,つまり“全体としてのその人らしさ”という意味であって人とのエキセントリックな違いだけに焦点化したものではありません。例えば,その個性が誰かと似通ったものに見えたとして,だからと言って,その個性は尊重するに値しないとは言えないでしょう。

 昔から,習い事や学びの世界では,「まねぶ」ことや「守破離」ということが言われてきました。つまり,何事もはじめは真似をすることから始まるということで,そこに必要なものは,新奇な発想力ではなくて,先人の営みを真摯に観察する力や素直に受け入れる力,その意味を想像する力です。おそらくこれらの力は,日常生活を送るうえで,創造力よりは必要とされる力でしょう。
 特に初等教育においては,学校・家庭・社会の別なく「個性の尊重」を当然の前提とした想像力の育成が重要だと考えます。つまり,さまざまな体験活動を通じて周囲の人に対する想像力を働かせ,人の全人性を大切にすることを自分の内なる価値観にしっかり取り込むことです。
 
 ロシアが隣国ウクライナに攻撃を開始して,すでに1週間以上経ちました。原子力発電所への攻撃もありました。一般市民の犠牲も日に日に増えています。自分の放ったミサイルや弾丸がどういう結果を生むのか,自分が命じたことによってどういう結果が生まれるのか。人として当然持つべき「人の痛みを感じる」想像力を持たないことの怖さと言うべきでしょう。

〈第5話〉コロナ対策にみる手段の目的化 21年7月 
 西村経済担当相が,飲食店の酒提供を抑えるために,酒類販売業者や金融機関から圧力をかけさせるとの発言が猛批判を浴びて撤回に追い込まれました。その発言は,様々な我慢を強いられている飲食業界の方にとってあまりにその神経を逆なでするものであり,撤回は当たり前というべきですが,一部に,発言の目的は分からないでもないのだが…といった大臣を擁護するかのような趣旨の論評があることには,危惧を覚えます。なぜなら,この「目的さえ正しければ,手段は無理筋を通しても構わない」という発想は,時として国を大きく過つものであり,そういう発想を防ぐものこそ「法の支配」という理念であるはずです。その理念の下では,目的は言うに及ばず,その手続きもまた正しいものでなければなりません。

 さて,今回もまた,飲食店での酒提供がターゲットになりました。飲食業の方々にとっては,ほとほとうんざりというところが本音ではないかと思います。本コラムの筆者は日常的に飲酒をしないので,だから擁護しているのではないのですが,コロナ対策として酒類の提供だけを厳しく取り締まることに,はたして正当なエビデンス(根拠)はあるのでしょうか?
 そもそも,この飲食店の酒類提供の規制は,多人数でのお酒を伴う会食はワイワイ騒いで羽目を外すことが多いので感染リスクが高まるというのが理由です。確かにそれはそうなのかもしれませんが,世間の行動を見たときに,感染リスクの高い行為は外での飲酒だけなのかと言うと決してそうではないこと,いくつも指摘するとができます。つまり,酒自体が悪いわけではなく,要は飲み方の問題であり,であるなら,問題は酒に限らないはずです。にもかかわらず,毎度,酒類を提供する飲食店ばかりやり玉に挙げるのは,感染症対策を主導する中央政府や地方政府の思考停止の象徴,言い換えれば怠慢と言うべきであり,それに対してまともな対案を出せない国会や地方議会の野党もその責任を果たしているとは言えません。

 目的は感染リスクを下げることであって,本来,酒類提供の規制はそのための手段の一つでしかありません。ところが,いつのまにか酒類提供の規制が目的化してしまって,今度はその規制のためにさらにどう規制したら良いかという話になっているのが今の姿だと言えます。要は,根本を見失って手段が目的化してしまっているわけです。こうなると,手段の上にまた手段を重ねることになり,積み重ねれば積み重ねるほど物事の道理,あるべき姿から遠いものになってしまいます。
 いい加減に立ち止まりませんか?

〈第4話〉集団浅慮と多様性 21年5月
 集団浅慮とは,“グループシンク”(直訳すれば集団思考)の日本語訳として用いられる言葉ですが,集団がある決定をしたり,行動をしたりするときに,多くの人による話し合いにもかかわらず,(実は,それゆえに…なのですが)なぜか考えられないような愚かな決定や行動をしてしまうことを意味します。
 過去の歴史を振り返れば,日本そのものを滅亡の危機にさらした80年前の開戦によって,日本は中国と戦争をしながら同時にアメリカ,イギリスに宣戦布告するという,冷静に考えれば誰が見てもあり得ない決定をし,しかも状況が悪化してもずるずると引き延ばした結果,世界中を敵に回して悲惨な結末を迎えました。その負の遺産が,今でも外交面や領土面などいろいろなところに影響を与えていること,ご存知の通りです。
 翻って,現在のコロナへの対応を見ても,国や地方自治体のトップは派手なパフォーマンスのわりに,首をひねるような対応が目立つこと,例のマスク配付を引き合いに出さなくても,いくつも指摘することができます。その愚かな決定や対応で,いったいどれだけ貴重な時間や税金が空費されたでしょう。

 この集団浅慮に陥る要因はいくつも指摘されていますが,そのひとつに,集団の意思決定が少数の専門家に左右されたり,メンバー全体に過剰な自負心が見られたりすることや,メンバーの均一性や閉鎖性が進んでいたりすることで,外部からの批判も受け付けず,内部からの反省も出にくい体質になっていることが挙げられます。要するに,多様性に乏しい単なる仲良しクラブになってしまっている集団,組織がそうなる可能性が高いということです。

 さて,私たちの研究会はそういう集団浅慮のない集団でありたいと考えます。そのためには,多様な背景を持った方々の集団でありたいということです。最近,ダイバーシティ,つまり多様性の尊重がよくいわれます。現在,ダイバーシティという言葉は女性活用の文脈で使われることが多いのですが,本来の多様性とは別に性の違いだけではありません。キャリアの多様性もまたしかりです。この研究会には,教育関係者や心理職,カウンセラーの方も含まれますが,そういうメンバーだけでは集団浅慮に陥る可能性があります。それを避けるためには成員の多様性を担保し,異論を尊重することができる集団でありたいと考えています。

〈第3話〉半沢直樹とアドラーと理想郷 20年10月
 ドラマ「半沢直樹」が、最終回で令和の最高視聴率を更新とのこと。俳優陣の一種エキセントリックな演技やセリフ回しばかりがクローズアップされた面はあったものの、人気を集めたのは、もちろんそれだけが理由ではないに違いありません。見ていて思ったのは、結局、少しずつ表現を替えながらも繰り返されていた「まっとうに生きる者が、報われる世の中でなければいけない」「閉ざされた世界だけで通用する屁理屈がまかり通る世の中ではなく、一般社会の常識が通る世の中でなくてはならない」という主人公の訴えに、みんなが内心で共感していたからでしょう。(おそらく、多くの人は頭の中で現実の社会や政治の有様を思い浮かべ、それとの乖離に思いを致していたのではないでしょうか。)そういう意味では、何のことはない、50年以上の昔に始まり長期にわたり放送された(今でも再放送されている)人気ドラマ「水戸黄門」と同じコンセプトでありメッセージだと言っても、大きくは外れていないように思います。

 さて、アドラー心理学の提唱者、A.アドラーは、「常識(コモンセンス)」という感覚を大切にした人だったようです。その講演は、“専門家”でなければ理解できないような言葉を用いず、誰にでも分かる平易な言葉を使い、話の内容も常識的なものであったため、ある講演のあと、話を聴いたある人に「今日の話はすべて当たり前のことばかりだった」(つまり、聴くほどのことじゃ無かった)となじられたことさえあったといいます。ですが、アドラーにすれば、きっと“真理は(エキセントリックな屁理屈ではなく)常識の中にある”と言いたかったのではないかと思います。
 
 そのアドラーが、究極の目標としたのが「共同体感覚」で、これは、外の世界を敵と味方に分断して判断する発想を捨てて、すべてのものは、自分にとって内側の“存在”であるという発想で物事を判断して行動する、言い換えれば“すべてのものに有縁を感じ、それを大切にして生きること”なのではないかと考えます。そして、アドラーの言う「常識(コモンセンス)」とは、この「共同体感覚」に裏打ちされたものを指しますからから、一般に“常識”という言葉から受ける“現実的な物事の見方”と言ったような意味合いとは異なり、精神性の高い心の在り様を意味しています。
 
 ただ、アドラーは、これを「理想郷」と考えたようですが、これを文字通り“ユートピア(ネバーランド)”、つまり“いつまでたってもたどり着かない”ものだと考えるならば、いつまでたっても現実の世界は変わらないでしょう。劇中の台詞にもあったように、“理想と現実は違う”とはよく言われることです。ですが、はじめから理想と現実は違うものだと考えることは、頭の中の思考や感情にあらかじめ自分で枠をはめてしまうようなもので、いったんそれが前提になると、行動も含めてそこからはみ出ることができなくなってしまいます。
 
 では、どう考えればいいのでしょう?それは、理想と現実は同じ地平にある、言い換えれば、理想は先にあって追い求める目標なのではなく、自分の足元にある“今、ここ”の現実の世界こそ、自分の理想でなければならないという前提に立って、自分が行動すること。つまり、必要なことは、自分が生きるこの世界を「理想郷」だと見なして、自分の行動を変えていくしかありません。
 
 なぜならば、人生は一度きり。「理想郷」は、今、生きている、この社会に作らなくては意味がないものだからです。

〈第2話〉「クリティカルシンキング」のすすめ 20年8月
 大阪府の知事が、コロナウィルスとイソジンなどのうがい薬の関係について会見で述べたことが、様々な波紋を呼んでいます。その発言は、医学に素人の目から見ても、短絡的に受け取る人は“新型コロナ肺炎がうがい薬で治る“と誤解するだろうなと思う内容なのですが、発言にあおられた結果、今度はうがい薬が買い占められたりする騒ぎになっているようです。 
 これに限らないのですが、今回のコロナだけでも明らかなウソとは言わないまでも根拠の薄い言説がいくつも飛び交いました。中には、“お湯を飲めば予防できる“というお気楽な説もありました。ただ、これらの話に跳びつく人を決して揶揄するつもりはありません。人間だれしも、不安に駆られれば、“藁をもつかむ”心理状態になることは無理もないことだからです。
 
 さて、「クリティカルシンキング」、日本語に訳すと「批判的思考」という言葉があります。批判というと、どうしても“否定する“といった意味合いに受け取られがちですが、元々は、物事を“熟慮して正しく判断する”という意味であって、そこにはイチャモンをつけるといったニュアンスはありません。つまり、「クリティカルシンキング」とは、何かに直面した時に物事を鵜呑みにするのではなく、いったん立ち止まって、それが本当にそうなのか多方面から客観的に検討し、熟慮して論理的に判断することを言います。
 さまざまな場面を通じて、子どもたちにこの「クリティカルシンキング」を育てることの重要性は教育の世界でも以前から指摘されていて、心理教育の一環として計画的に取り組んでいる学校も一部にはあるようです。
 
 今回の大阪府知事の発言にしても、手洗いするときに単に水で洗うよりは石鹸を使ったり指先を消毒したりする方が良いように、うがいにしても、水でするよりもうがい薬でする方が殺菌効果はあるでしょうから、口の中の菌が減ることは自明のことです。感染症予防にうがい手洗いの重要性は既に周知のことですから、人にうつす可能性を低くするという意味では、その発言は当たり前のことを述べているにすぎません。
 だからと言って、うがい薬を使えばコロナが治るかのように誤解されかねない発言を思わせぶりな調子で不用意にすることは問題でしょうし、うがい薬を使いすぎることは、かえって健康に良くない影響を与えるだろうとも思います。つまり、今回のような発言に対しては、鵜呑みにするのではなく、熟慮して冷静に判断する「クリティカルシンキング」が必要なのです。

 私たち日本人が、総じて“お上”のお達しに対して従順で同調性が高いということは、よく言われることです。今回のコロナでも自粛要請にほとんどの日本人は素直に従いました。その反面、“熱しやすく冷めやすい”その国民性は、物事に対処するときに思考が極端に振れる「白黒思考」「0か100か思考」に陥りがちで、“自粛警察”と言われる過剰な反応が見られているのも事実です。ですが、“真理は極端にはなく、その間にある”と言う意味のことは、ギリシャ哲学でも、儒教でも、仏教でも、先人たちによって繰り返し述べられています。

 私たちが、心理学を学ぶ理由のひとつに、世の中の出来事に右往左往するのではなく、しっかりとした考えを持って正しく論理的に判断できる自分でありたいという願いがあるように思います。そのための方法として、常に「クリティカルシンキング」を心がけたいものです。

〈第1話〉「専門性」とは何か? 20年6月
 確かに専門的とは、多くの場合、そのことについて詳しく知っているといった意味合いで用いられます。「専門性」の高さに、そのことに関する豊富な知識を必要条件とすることに異論はありません。一般的には、専門的、言い換えれば細かな知識を身につけて、「微に入り細を穿つ」コメントを発する人を専門家と言うのでしょうが、本当は、それだけではより重要な半面が抜け落ちてしまうのでは?と考えます。
 
 司馬遼太郎の随筆の中に「鳥の目、虫の目」という比喩があります。「鳥の目」は空の上から俯瞰して見ること、「虫の目」は地を這うように横から観察することと捉えて良いでしょう。専門性とは、得てして、その「虫の目」のような見方だと思われがちですが、実は、「鳥の目」を意味するのではないでしょうか?
 
 世の中の出来事はすべて単独では存在しません。すべて、周りとつながっています。個々の出来事の本質を理解した上で的確な対処をするためには、「虫の目」だけでは不十分で、俯瞰して見る目、すなわち「鳥の目」が必要でしょう。なぜなら、物事の本質は、そのものだけを見ていても十分には見えてきません。他と比較して初めて見えてくるものだからです。

 「専門性」の高さをあたかも顕微鏡のような「虫の目」としての視力の良さだと考えてしまうと、すべては「微に入り細を穿つ」ことで、その本質が見えるという発想に行きつくことになります。ですが、詳細な部分をすべて集めてもそれが全体になるとは限りません。よく言われる例ですが、ゾウの鼻や足、胴体など、如何に詳細なパーツを集めても、ゾウの全体像が正しく示されるとは限らないのです。全体像を正しくつかむためには、やはり全体の姿を俯瞰して知っておく必要があります。

 さらに俯瞰する際には、他の動物の姿を思い浮かべて、たぶんゾウとはこういう姿だろうと考える想像力が必要です。この想像力がなければ、見えたものだけが全てと勘違いする誤りを犯すからです。そういう意味では、専門性の高さとは想像力の豊かさのことだと言っても良いかもしれません。俗にいう「専門バカ」という揶揄は、そういう細部にやたら詳しい反面、全体が見えない(言い換えれば想像力が乏しい)がゆえに、物事の実際の役に立たないことを言います。世の中の出来事に対処するためには、常に大なり小なり臨機応変さが必要ですし、その隙間を埋めるには想像力が必要だからです。

 私たちは「虫の目」を養うことだけを意図した研修ではなく、常に「鳥の目」を意識して、研修相互が関連しあって統合されるような研修を続けていきたいと考えています。
法人規約
第 1 章  総 則
(名称)
第1条 当法人は、一般社団法人 教育総合サポートみらい と称する。
(事務所)
第2条 当法人は、主たる事務所を兵庫県神戸市中央区栄町通6丁目1番14号に置く。
2 当法人は、理事会の決議によって、従たる事務所を必要な場所に置くことができる。
(目的)
第3条 当法人は、学校教育、社会教育等さまざまな教育及び福祉関係者に対して、その実践に役立つ研修等の共益的活動を行うとともに、子どもやその保護者を対象にした教育支援活動を行い、その福祉に貢献することを目的とする。
(事業)
第4条 当法人は、前条の目的を達成するため、次の事業を行う。
⑴ 教育及び福祉関係者に対するカウンセリング及び研修会の実施
⑵ 子どもを対象とした学習・生活支援活動
⑶ 保護者を対象にした啓発・支援活動
⑷ 前各号に掲げる事業に附帯または関連する事業

第 2 章  社員及び会員
(構成)
第5条 当法人の会員は、次の3種とし、正会員をもって一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(以下「一般法人法」という)上の社員とする。
⑴ 正 会 員  当法人の目的に賛同して入会した個人または団体
⑵ 賛助会員  当法人の事業に賛助するために入会した個人または団体
⑶ 名誉会員  当法人に功労のあった者等で社員総会において推薦された者
(入会)
第6条 正会員または賛助会員として入会しようとする者は、別に定める入会申込書により申し込み、理事会の承認があったときにその資格を取得する。
(入会金及び会費)
第7条 正会員は、入会金5,000円及び年会費3,000円を納入しなければならない。
2 賛助会員は、入会金5,000円及び賛助年会費2,000円を納入しなければならない。
(退会)
第8条 会員は、退会届を提出することにより、任意にいつでも退会することができる。

第 3 章  社員総会
(構成)
第9条 社員総会は、全ての社員(正会員)をもって構成する。
(権限)
第10条 社員総会は、次の事項について決議する。
⑴ 会員の除名 
⑵ 理事及び監事の選任または解任 
⑶ 理事及び監事の報酬等の額 
⑷ 貸借対照表及び損益計算書(正味財産増減計算書)並びにこれらの附属明細書の承認
⑸ 定款の変更 
⑹ 解散及び残余財産の処分の承認
⑺ その他、社員総会で決議するものとして法令または定款で定められた事項
(開催)
第11条 当法人の社員総会は、定時社員総会及び臨時社員総会とし、定時社員総会は毎事業年度の終了後3か月以内に開催し、臨時社員総会は必要に応じて開催する。
(議決権)
第12条 社員総会における議決権は、社員1名につき1個とする。
(議事録)
第13条 社員総会の議事については、議事録を作成し、議長及び出席した理事が、これに署名した上、社員総会の日から10年間主たる事務所に保管する。

第 4 章  役 員
(役員)
第14条 当法人に、次の役員を置く。
⑴ 理事 3名以上7名以内
⑵ 監事 1名
2 理事のうち1名を代表理事とし、代表理事は理事長と称する。
3 必要に応じて、代表理事以外の理事から、2名以内の業務執行理事を置く。業務執行理事は副理事長と称する。
(役員の選任)
第15条 理事及び監事は、社員総会の決議によって社員の中から選任する。
2 理事長及び副理事長は、理事会の決議によって理事の中から選定する。
3 監事は、当法人の理事を兼ねることができない。
4 それぞれの理事について、当該理事と次の各号で定める特別な関係にある理事の合計数がその総数の3分の1を超えてはならない。監事についても同様とする。
⑴ 当該理事の配偶者
⑵ 当該理事の三親等以内の親族
⑶ 当該理事の使用人
⑷ 前各号に掲げる者以外で、当該理事から受ける金銭その他の資産によって生計を維持している者
(理事の職務及び権限)
第16条 理事は、理事会を構成し、法令及び定款の定めるところにより職務を執行する。
2 理事長は、法令及びこの定款の定めるところにより、当法人を代表し、その業務を執行する。3 副理事長は、理事会において別に定めるところにより、当法人の業務を分担して執行する。
(監事の職務及び権限)
第17条 監事は、理事の職務の執行を監査し、法令の定めるところにより、監査報告を作成する。
2 監事は、いつでも理事に対して事業の報告を求め、当法人の業務及び財産の状況の調査をすることができる。
(役員の任期)
第18条 理事の任期は、選任後2年以内に終了する事業年度のうち最終のものに関する定時社員総会の終結時までとし、再任を妨げない。
2 監事の任期は、選任後4年以内に終了する事業年度のうち最終のものに関する定時社員総会の終結時までとし、再任を妨げない。
3 補欠として選任された理事及び監事の任期は、前任者の任期の満了する時までとする。
4 理事及び監事は、辞任または任期満了により定員を欠くに至った場合に、新たに選任された者が就任するまでは、その職務を行う権利義務を有する。
(役員の解任)
第19条 理事及び監事は、社員総会の決議によって解任することができる。
(報酬等)
第20条 理事及び監事に対して、その職務執行の対価として、社員総会において別に定める報酬等の支給の基準に従って算定した額を、社員総会の決議を経て、報酬等として支給することができる。

第 5 章  理事会
(構成)
第21条 当法人に理事会を置く。
2 理事会は、すべての理事をもって構成する。
(権限)
第22条 理事会は、この定款に別に定める事柄のほか、次の職務を行う。
⑴ 業務執行の決定
⑵ 理事の職務の執行の監督
⑶ 理事長及び副理事長の選定及び解職
⑷ 顧問の選任及び解任
⑸ 規則の制定、変更及び廃止(但し、社員総会規則を除く)
(開催)
第23条 当法人の理事会は、通常理事会及び臨時理事会とし、通常理事会は毎年事業年度の上半期と下半期に各1回開催し、臨時理事会は必要に応じて開催する。
(議事録)
第24条 理事会の議事については、議事録を作成し、出席した理事及び監事がこれに署名した上、理事会の日から10年間主たる事務所に保管する。

第 6 章  事業及び会計
(事業年度)
第25条 当法人の事業年度は、毎年4月1日に始まり、翌年3月31日に終わる。
(事業計画及び収支予算)
第26条 当法人の事業計画並びに収支予算については、毎事業年度の開始の日の前日までに理事長が作成し、理事会の決議を経て社員総会の承認を受けなければならない。これを変更する場合も同様とする。
2 前項の書類については、主たる事務所に、当該年度が終了するまで据え置き、一般の閲覧に供するものとする。
(事業報告及び決算)
第27条 当法人の事業報告及び決算については、毎事業年度終了後、理事長が次の書類を作成し、監事の監査を受けた上で、理事会の承認を経て、定時社員総会に提出し、第1号及び第2号の書類については、その内容を報告し、第3号から第5号までの書類については、承認を受けなければならない。
⑴ 事業報告
⑵ 事業報告の附属明細書
⑶ 貸借対照表
⑷ 損益計算書(正味財産増減計算書)
⑸ 貸借対照表及び損益計算書(正味財産増減計算書)の附属明細書
2 前項の書類のほか、次の書類を主たる事務所に5年間備え置くとともに、定款及び社員名簿を主たる事務所に備え置く。
⑴ 監査報告
⑵ 理事及び監事の名簿
⑶ 理事及び監事の報酬等の支給の基準を記載した書類
⑷ 運営組織及び事業活動の状況の概要及びこれらに関する数値のうち重要なものを記載した書類
(剰余金の分配の禁止)
第28条 当法人の剰余金は、これを一切分配してはならない。
(残余財産の帰属)
第29条 当法人が清算をする場合において有する残余財産は、社員総会の決議を経て、公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律第5条第17号に掲げる法人または国もしくは地方公共団体に贈与するものとする。

第 7 章  委員会
(委員会)
第30条 当法人の事業を推進するために必要があるときは、理事会は、その決議により委員会を設置することができる。
2 委員会の委員は会員の中から理事会が選任する。
3 委員会の任務、構成及び運営に関し必要な事項は、理事会の決議により別に定める。

第 8 章  事務局
(事務局)
第31条 当法人の事務を処理するため、事務局を設置する。
2 事務局には、事務局長及び職員を置く。
3 事務局長及び職員は、理事長が理事会の承認を得て任免する。
4 事務局の組織及び運営に関し必要な事項は、理事会の決議により別に定める。

第 9 章  附 則
(最初の事業年度)
第32条 当法人の最初の事業年度は、当法人の設立日令和3年4月5日から令和4年3月31日までとする。
(設立時の役員)
第33条 当法人の設立時の役員は、次のとおりとする。
理 事 長  富岡 澄夫
副理事長  多田 浩三
理  事  栄国 守
理事・ 事務局長   藤井 謙介
理事・ 事務局次長  小笠原 哲也
監  事  中村 行憲

2021(令和3)年4月5日 規約制定
養成講座テキスト
 (一社)教育総合サポートみらいが認定するサポートカウンセラーの養成講座において使用しているテキストを1冊2000円で販売しています。臨床心理学やカウンセリングに関連するテーマについて要領よくまとめた冊子です。
 購入希望があれば,お問い合わせページからお申し込みください。
共同体感覚
 多くの人は、自分と他(人に限らず自然や事物全て)との関係において、どこかで線引きをして“内を味方、外をそうでないもの(それは容易に敵に変わる)”として二分化して考える。「共同体感覚」とはそういう物事の捉え方を否定する。その感覚を広げていけば、やがてすべてのものは内へと変化し内外の区別や心の中に引いた線は無意味なものとなる。仏教でいう「有縁」もある意味、それを違う概念で説明したものかもしれない。
理想郷
 ユートピアとは、トマス・モアがその著作において“現実にはあり得ない理想の世界”を表すのに用いた言葉だが、理想は理想、どこまで行っても現実とは交じり合わないものだと理想と現実を二分化して考えている限り、いつまでたっても理想郷など実現しないこと自明のこと。だが、人が生きているのは現実の社会なのだから(理想を思い描くだけでは何も変わらない)、現実の世界に理想を持ち込んで行動するしか方法はない。その時の行動にお互いに必要なものが「勇気づけ」だと考える。